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まんが日本昔ばなし

ごんぞう虫

平成2年8月18日放映

演出・原動画・セルワーク(彩色)・美術(背景):三善和彦

文芸:沖島勲

あらすじ

 昔々、あるところに太郎という男の子が病気の母親と二人で暮らしていた。太郎は毎朝しじみを売って貧しい家計を助けていたが、二人の暮らしは大層貧しく、母の薬も満足に買うことができなかった。太郎には大金持ちの伯父、権造がいた。困り果てた太郎が権造に頼みに行くと、しぶしぶ百文だけ貸してくれた。太郎はその金で、母に僅かばかりの薬を飲ませた。それからせっせと働いて、ようやく百文こしらえた太郎が権造に返しに行くと、権雑は利息分としてさらに五百文を要求した。太郎は必死に働いたが、とても返せる金額ではなく、利息は日々増えて行くばかりだった。

 

 薬も無くなり年の瀬が迫って、困った太郎は再び権造の家に金を借りに行くが、にべもなく断られた。ガッカリして帰る途中の橋の上で、太郎は白髭の老人から一本足の下駄を手渡された。老人は、その下駄を履いて一転びすると小判が一枚出るが、あまり転ぶと体が小さくなるから気を付けろと言って消えてしまう。早速家に返った太郎が下駄を履いて転ぶと、老人が言ったとおりに小判が一枚飛び出した。太郎は三回転んで小判を三枚手にすると、下駄を神棚に祭った。

 

 ところがたちまちこの噂を聞きつけた権造が、太郎のいない間にこの下駄を持っていってしまう。権造は庭一杯に風呂敷を敷き詰めると、無我夢中で転びまくった。慌てた太郎が権造の家に駆けつけると、庭一杯に光輝く小判の山があるだけで、権造の姿は何処にもなかった。やがて小判の山から下駄を見付けた太郎が、鼻緒に付いた小さな虫を指で弾き飛ばした。実はそれが、すっかり小さくなってしまった権造だった。

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原作

 稲田浩二さん(未来社刊)の原作との一番の違いは、権造が五百文という法外な利息を要求するところです。原作にはこうした場面はなく、太郎は最初に借りた金も返せないうちに二度目の借金を申し込んで断られます。

 

 しかしこれでは太郎の側の正当性に、大きな弱点が生じてしまうように思いました。少なくとも一度借りた金を返せるように一生懸命努力したにもかかわらず……というようなことがないと、太郎の立場に100%同情できません。それに権造の意地の悪さ、強欲なところももっと際立たせたかったので、このように脚色しました。

 

 この話は「まんが日本昔ばなし」初期の、小林三男さん演出の「宝の下駄」の類話です。「宝の下駄」は「ごんぞう虫」より遥かに明るいタッチの作品で、あっけらかんとした雰囲気で物語が進行していきます。そういうタッチが、本来の「まんが日本昔ばなし」の持ち味だったかもしれません。「ごんぞう虫」はそれに比べると、かなりシリアス・タッチです。長い間に番組全体のトーンも変化してきたという事もあるようにも思います。もしこの二つを見比べられたら、面白いでしょう。

解説

 この作品も、絵作りについてはほとんど自分一人でやった作品です。

 

 キャラクターの描線は、製図用インクをつけた筆で描いた動画を通常のアニメーション同様カーボンでセルに転写した物ですが、彩色にはセル絵の具は一切使わず、草木染の和紙を切って一枚下のセル(の表側)に貼っています。太郎の頬や権造の目の下の赤みは、この和紙に赤鉛筆でぼかしを入れています。従って、セルの枚数が自動的に二倍になってしまうので、セル重ねには気を使いました。

 

 背景も草木染と粕を漉き込んだ和紙の貼り絵で、細い線の部分だけポスターカラーで描いてあります。なお、白髭の老人が登場するシーンだけは、特殊な和紙を使って少し幻想的な雰囲気の背景にしました。

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​ 何度も何度も転ぶうちに、小判が大きくなってきたと思っても、自分が小さくなっていることに気付かない権造ですが、「縮みゆく人間」(ジャック・アーノルド監督、1957年、アメリカ映画)を思い出します。リチャード・マシスンの小説が原作の傑作SF映画です。DVDも出ていますので、ご存じない方は是非ごらんになることをお勧めします。

​ それにしても権造は、普通ならこの程度のところで気がつくだろうというような限界を超えて、転び続けたとしか思えませんね。虫のような小ささになって、まだ下駄が履けたとは到底思えないのですが、どうかその辺の矛盾には突っ込まないでおいて下さい。

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​ この作品の制作当時は、和紙という素材にハマっていました。和紙の専門店に、まずは作品に使えそうなものはないかと出かけるのですが、見ているうちに本来の目的を忘れ、ついあれもこれも面白いから欲しい……という気持になってしまいます。そもそも和紙というのは、良いものは結構高価ですし、保管するにも場所を取ります。使えば減るので、じゃんじゃん使う気持ちにもなれず、結局持ち腐れになってしまいがちです。

 デジタルの時代になって、こうした素材も絵の具も、使っても使っても減らなくなったのは有り難いこと。ただ、確かに便利にはなりましたが、素材そのものが持つ実物としての魅力には、デジタルは到底かなわないと感じます。

 実は第1稿には、一層シリアスな描写がありました。大金持ちの本家の跡継ぎである権造の弟が太郎の父親で、夭折した結果、その嫁である母は太郎がまだ幼いときに本家から追い出され、母は女手一つで太郎を育てたが無理がたたって体を壊し……というような、ここに至るまでの経緯を描いています。さらに原作を変更し、橋の上で太郎に声をかけてくるのはおじいさんではなく単に白い着物の男の人(顔は見せない)で、太郎はあとから「あれはもしかして、亡くなったお父っつぁんだったのかも」と思う……というようにもしています。亡き父の存在や、その父と権造との関係も描きたいと欲張ったのですが、如何せん冗長になり過ぎました。全て裏設定として仕舞い込み、できるだけシンプルに落とし込んだのが……というつもりでしたが、結果はまだまだシリアスでしたね。

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